ななころびやおき

何度ころんでも自然と立ち直ってる。生きるってきっとそんなもんだ。

瞑想の報告や宗教のことなど

今日はほぼ宗教やスピリチュアル系の話です😅

(といっても、普段からそれよりの記事が多いですけども😆

 

以前ブログ記事に書きましたが、今年の4月に瞑想に出会ってからというもの瞑想を続けてます。この瞑想はノートとペンだけで行えるし、立ってても寝転んでいても集中できさえすれば可能なので気軽に行えます。

 

瞑想するにつれて、確かに何年も根に持って嫌悪していた人のことや、凄く辛かった出来事を今まで引きずって、思い出しては苦しみ、うんざりしてたのですが、

最近は何だか思い出せなくなってきてて、やっと思い出しても、そんなことあったなぁ。という感じで、感情が出てきません。

他にも、

今、抗がん剤で禿げてるのですが、人前でもウィッグもニット帽も被らなくても平気になってるし

仕事中は作業しながらも頭の中は過去の嫌な事で雑音まみれだったのですが、殆ど無音になってます。

 

しかし瞑想を続けると、不思議なことに過去の蓋をして忘れてたトラウマがわんさか溢れ出してきます。

(これまでは観念的に「その出来事にもメリットはあった」と植え付けて解消したように見せかけて、実はゴミをぎゅうぎゅうにつめて重石を乗せ、見えないように痩せ我慢してるだけでした💦

 

以前、世界真光文明教団という新興宗教に入ってたことは結構前の記事で書きましたが、当時は毎日通わないと脅しの電話がきてた事とか、趣味などやってると熱心な信者の方達にお叱りや嫌味を言われてたこと、なりたくもない専従者になるように脅されたことなど。

暫く忘れてたのですが、感情は心身にしっかり蓄積されてるんだなぁと感じる日々です。

 

目に見えない世界に関心がある方は、新興宗教やスピ系セミナーにお金を出して熱心に通ったり、恐怖心を煽るような陰謀論、オカルトなどに興味を持って信じきったり、色んな手段で真理を追求されると思いますが、

根本的な真理はそう自分や他人を追い詰めて苦しくさせたり、怖がらせるようなものではないような気がします。

 

癌が自然消滅した方々のお話や、以前ブログに書いたバーソロミューの本、色んな実例をかき集めていくと、私たち生命の本質は無償の愛なのだということが納得いきます。

時には苦しみも大切ですが(克服することで無償の愛へと一歩一歩近づけるため)、愛とは真逆の恐怖や苦しみに慣れ親しむと、本質からはどんどん遠ざかっていくのは必然ではないかと思います。

 

お釈迦様が仰った四苦(生老病死)も、それらが苦しいと感じさせるのは自我(エゴ)ではないかと思います。

真理や魂の世界のお話によると、何らかの気づきを得るために、大きく感情が揺さぶられるような出来事があるようです。

なので、逃げようとする限り克服できるまで追ってくるし、何かにすがって助けて貰おうとしても、克服したことにはならないのでこの世での課題は溜まっていく一方。

さらに悪いことに自分の苦しみが他人との比較の材料になり、幸福な人を妬んだり愚痴を言うことになると、克服できないどころか、ますます状況は悪化するようです。(これらは私の実体験からです💦)

 

以前の私は、皆んなと一緒にいて寂しさを紛らわそうという気持ちがあり、新興宗教の教えに矛盾を感じつつも仲良い関係に執着して辞めれなかったり、

逆に辞めた後はそういった団体から被害を受けた恨みつらみで自我が暴走してて、暫くは心は宗教に囚われてたし、今もトラウマが心の奥底に眠ってたことに気づいたのでまだまだのようです(笑)

 

宗教団体やスピ系のセミナーなど、それで心が救われてる方々もいたり病気が寛解した方もいるので無我に否定はできませんが、

困ったらすぐ答えを教えてもらう(頼る)のでなく、自分の中に答えがあるで、まずは自己内観し、自分で考えることが大切だと思ってます。

 

新興宗教を辞めた今も、教えていただいた内容の中にも素晴らしいものがあった事は認めてます。でもこれからは、新興宗教では気づかせてもらえない無償の愛真理を魂の目で見ていければいいなと思います。

 

偏見を持たず幅広い目線で、目の前のことや好きな事を、周りの人々を通じて、どこまでも真理を追求していこうとする気持ちが大切だと思う日々です。

また機会があれば、瞑想の結果報告していきます🍀